統計学。限りなく透明に近い世界。

先日,Twitter 上で統計学にまつわるアンケートを見つけた.

頻度主義統計学における「95%信頼区間」の95%というのは,以下のどちらだと思いますか

 ・確率

 ・割合

 

というもので,私は反射的に「割合」を選択した.

さて,アンケートの結果(投票割合)はというと,回答された1,527票について以下のとおりだった.

 

 ・確率→ 50%
 ・割合→ 50%

 

非常に興味深いと感じた.投票した方々は全員が統計学を勉強したことのある人とは限らないし,適当に投票した人も投票ミスした人も含まれるだろう.それにしても,この結果である.綺麗にまっぷたつ.「信頼区間」という概念,ひいては「統計学」というものがいかにきちんと理解するのが難しいものであるかがわかる気がした.

元のツイート主およびその周辺の方々の間では,統計学を専攻している研究者も交えて Twitter 上で議論がなされたようだが,私自身は主に以下のテキストを通じて少しだけ学んだことがあった.

 

 

 

 

 

統計学を学んだことのある方の中には,おそらくご覧になったことのある方も多いかと思う.

たとえば,1冊目の「統計学のセンス」では信頼区間について以下のように述べられている.

 

統計学のセンス No.2
95% 信頼区間とは

無作為抽出を繰り返し行って 95% 信頼区間を計算したとき,100 回に 95 回くらいは真の平均値 μ を含んでいる範囲である.いま計算された 95% 信頼区間に真の平均値 μ を含む確率が 95% という意味ではない.
その確率は 1(含んでいる)か 0(含んでいない)かのどちらかである.

 

新版 統計学のセンス デザインする視点・データを見る目 p.12
[著] 丹後俊郎

 

明確に「確率が 95% という意味ではない」と述べられているわけだ.4冊目の「統計学入門」の p.225 においても,「~,θを区間内に含むものの割合が 1-α となるということである.~」と太字で述べられている.

ここでは信頼区間について詳しい議論はしないが,このあたりの内容について気になる方は上記のテキストなどを参照された方がよいと思われる(元のツイート主のことはここでは言及しないのであしからず).

 

厳密な議論は他に譲るとして,私が感じたのは「そもそも信頼区間とかそれ以前に,統計学には興味があるものの何をどう勉強していいのかわからない,あるいはわかった気になったまま闇雲に勉強している人が多いのではないか」ということだ.

私自身は先のツイート主や統計学を専攻する研究者のような統計学の専門家というわけではない.あくまで学生時代に研究や講義を通じて学び,実務でデータ分析を行う際に応用すべく統計学を学び続けてきた者である.まだまだ理解が浅いゆえに,研鑽を重ねる必要があると思っている.

 

そもそも統計学に限らず何かを体系的に学ぶということは簡単なことではなく,よほど優れた先導者のもとでしっかりと指導を受けながら時間をかけて学ばないときちんと身につくものではないと思っている.

昨今のデータサイエンス関連の(少しばかりの)ブームや,データサイエンティストなる職種へのある意味で妄信的な憧れの影響として,統計学機械学習などの諸分野を学ぼうとする方々が増えてきているように感じる.もちろんそれ自体は特に問題はないが,一方で学習のロードマップや体系的なカリキュラム,道しるべとなるものがほぼ存在しない状況であるがゆえに,上記のように私が感じたような状況が生まれてきているのではないかと思っている(もしご存じの方はぜひともご教示いただきたい).

 

振り返ってみて自分自身も似たような状況ではあったが,幸いにも師や先輩に恵まれ,実際にデータを使って肌感覚を身につける機会にも恵まれたため,まだまだ未熟ではあるが,ある程度の素養は備わっているのではないかと思う.

言い換えると,そのような機会はそうそう巡ってくるものではないため,これから統計学を勉強しようという方は,優れた先導者や学習の場,演習のためのデータセット・分析例などを能動的に求めなければならないということだ.

 

私の見える景色としては,統計学というのは入口からすでによくわからない霧の中を進むような感覚だけれど,学び進めるうちに一瞬「わかった!」という瞬間が訪れ,少しだけ霧が晴れる.そしてまた次の霧へと向かっていくという,いつまでも終わりのない,限りなく透明に近い世界だ.

この統計学という限りなく透明に近い世界に足を踏み入れた身として,これからも研鑽を重ねなければ,と居住まいを正したというお話.

 

人工知能とディープラーニング(深層学習)の向かう先は。

ここでは技術的な解説などはしない.エッセイ的なものとして理解していただきたい.

 

ディープラーニング(深層学習)という言葉はポピュラーなものになりつつあり,ニュースなどでもちらほら見かけるようになってきた.ビジネスシーンはもちろん,日常的なところでも応用されつつある.たとえば音楽シーンでは,数年まえの紅白歌合戦Perfume のステージで使われたりもしてちょっと話題にもなった.

世間にディープラーニング機械学習といった理論・技術の概念が広がるとともに,多くの書籍や記事が出回るようになった.ただ,私見だがシンギュラリティなんて当分起こりえないだろうし,人工知能(と世間的に呼ばれるもの)が科学的な理論・技術の範疇を超えて人間の思いもよらない進化を遂げることなどありえない.それはもう SF の世界観だ.

私の解釈では,人工知能と呼ばれているものは数理的手法に基づくモデルをプログラミング言語によって実装したものの集合体である.そう,端的に言えばプログラムの集まりなのだ.人工知能は歴史的にもこれまで三回ほどブームを繰り返してきて,学術的にも実用的にもまだまだ発展途上だ.可能性は無限大なのだが,それが独り歩きして人類にとっての脅威となりうる存在になるような事態は,少なくともこの数年では起こりえないだろうと思っている.

 

むしろ,人類にとっての脅威となる可能性は,人類そのものが引き起こすのだと.

たとえば,人工知能そのものというよりその理論体系や技術を生命科学創薬といった領域に応用する場合.これらの領域においては各国で規制や法令が厳しく定められており,現状では表立って人命を脅かすような応用のされ方というものは私の知る限りでは見受けられない.

しかし,一歩間違えれば簡単に人の命に関わる,あるいは生態系に影響を及ぼすことのできるレベルにまで近づいているのだと思う.もちろん,数理的手法を適切に応用することで,医療などを通じて人類への多大な貢献が期待できるし,その一方で,表立っては出てこないもののこの世界のどこかで人類にとって脅威となりうるような研究開発が進められている可能性があるということは,意識しておいたほうがよいだろう.

ディープラーニングに代表されるような人工知能にまつわる話題としては,人間の仕事が奪われて大量に失業者を生み出すのでは,というものも一時期あった(今も?).研究機関や企業の努力によって様々な領域で人工知能にまつわるサービスが出てきていることは確かだし,定型的な仕事,すなわち明確に定式化可能な事柄は人工知能(と世間的に呼ばれる自動化システム)に置き換えられるというのは時代の趨勢だ.

したがって,デスクワークを中心として,臨機応変な判断や意思決定定などを伴わない定型的な作業「だけ」できる人は置き換えられてしまうというのは,残念ながら企業経営の立場からするとコスト面で致し方ない選択だし,企業に雇われる側からすると定型的な作業「だけ」ではなくより付加価値の高い仕事ができるようになる必要がある.他人事ではなく明日は我が身,ということだ.

 

人工知能ディープラーニングにまつわる話題は,今後も尽きないだろう.いかにして人の言葉の意味を解釈できるか,感性を持てる(持っていると人に感じさせられる)か,論理の飛躍を生み出せるか,法律上の問題は,倫理的な問題は,社会的な意見の一致や組織における統制方針は,などなど.

それらの論点が語りつくされ,学術的・実務的な発展が進んだその先には,ひとつの到達点が見えてくるのかもしれない.

人生はセックスとアイドルで成り立っている。

※タイトルはアレだがR-18記事ではない.念のため.


「セックス」というと,眉をひそめる人は多い.人間として遺伝子にインプットされた,種の存続に欠かすことのできない行為だ.たしかに,公の場でいきなり「セックス」と連呼しだしたら,なんかヤバいやつがいるな,と思われるだろう.しかし,こうしている間にも夜には家で,ホテルで,あるいは他の場所でその行為に身を捧げている人々が存在するのだ.もしかしたら朝でも昼でも行為に及んでいるのかもしれない.

「セックス」に快楽が伴わなければ,おそらくほとんどの人間はその行為に価値を見出さないだろう.「子孫を残さなければ」と考えながら行為に及ぶ人はほとんどいないのではないだろうか.そしてそれは,人間以外の動物にとっても同じだ.単純に,気持ち良いからする,それだけだ.仮に「セックス」に苦痛が伴うとすれば? 誰が好んで行為に及ぶのだろうか.そうなれば種の繫栄は望めず,遅かれ早かれ絶滅の道を辿ることになる.

一方,「アイドル」というと,抵抗感を覚える人は少なくない.アイドルなんて,と拒否反応を示すのである.おそらく「アイドル」というものを低俗なものや何かいけないもののように捉えているのであろう.そして本音では好きなアイドルがいたとしても,それが職場や学校の誰かに知られたら,知人や親戚に知られたら,馬鹿にされるかもしれない,呆れられるかもしれない.そんな怖れがつきまとうのである.

「アイドル」が好きな人は,ひと昔まえは一種の気持ち悪い人のように見られる風潮があったようだ.そしてそのような人を指して「オタク」と呼ばれていたらしい.今では「オタク」といっても気持ち悪いニュアンスなどはさほど感じないことが多いし,アイドルが好きと言っても,ああそうなのね,くらいには受け入れられるようになってきたのではないだろうか.時代は変化するのである.

 

「セックス」と「アイドル」の共通点は何か? それは幸福感だ.シンプルに夢中になれる,気持ち良い,快感,サイコー.これが本質だ.行為に及ぶときは互いの身体を慰め合うことで快感が得られるし,アイドルの顔を見るだけでもテンションが上がり,アイドルが歌ったり踊ったりしている姿を観ると興奮して夢中になれる.

そして,「セックス」と「アイドル」には,その対象が誰でも良いわけではない,という共通点もある.セックス依存症やセックスに対してハードルが低い人だとしても,やはり本当に誰でも良いわけではなくて,たとえば清潔さのない人や自分の好みに合わない人と行為に及びたいとは本能的に思わない.そういう商売や性癖である場合を除いて.言うまでもないが,性犯罪などは論外である.

また,最近では「推し」という言葉があるように,「アイドル」だったら誰でも良いわけではない.自分が推せるアイドル,すなわち誰かにオススメしたいくらいハマっている人でないと偶像としての役割を果たせないのだ.一般にアイドルとして公言されている,認知されているだけでは不十分で,自分の中で琴線に触れるものがないとダメだし,夢中になれないとダメなのである.そういう意味では,わかりやすいアイドルグループに限らず,尊敬するビジネスパーソンや何らかの活動家なども人によっては「アイドル」として捉えうる場合もある.

 

「セックス」や「アイドル」に夢中になることは,ある種の現実逃避の意味を持つこともある.現実世界は,目を背けたくなるような,理不尽で憤りを感じる人間関係や出来事であふれている.職場や学校からはそう簡単に抜け出すことはかなわず,耐えしのぐ他ないことが多い.そんなとき,精神の安定のために人は理想的な世界を求める.そして人は「セックス」や「アイドル」にはいつでも快楽が待っていて理想とする世界が広がっていることに気づき,身を捧げるのだ.

しかし,そのような時間は永遠には続かない.オーガズムに達し「セックス」が終わると,また「アイドル」のイベントや動画の視聴などが終わると,たちまち現実に引き戻されることになる.そのたびに名残惜しさと,また辛い現実に立ち向かっていかなければならないという虚無感を覚えることになる.そして,次の快楽へと飛び込むことを夢見るのである.

肉体的な快楽を求めて「セックス」を渇望し,精神的な快楽を求めて「アイドル」に傾倒する.人によっては対象が「セックス」でも「アイドル」でもないかもしれない.それはそれでいい.他人に迷惑をかけなければ,合法的な範囲であれば個人の自由だし,とやかく言うつもりもない.しかし,人はこうやって虚無と快楽を行き来している.どちらかの度が過ぎてもいけない.虚無が過ぎても快楽が過ぎても,最悪死に至ることがありうる.だからこそ,人には理性というものが備わっている.

 

肉体的な快楽と精神的な快楽.

その象徴のひとつである「セックス」と「アイドル」.

人生はセックスとアイドルで成り立っている.